愛知県では、昭和30年代から40年代にかけて繊維工業が盛んで
あっちにもこっちにも工場ができて、カタカタ、バッタンバッタンという機織り音がしていた。
やがて繊維不況がやってきて、朝早くから夜遅くまでしていた音がしなくなった。
しばらくして、そこで働いていた女工さん達が去って行った。
そのうちに、門や玄関なんかに彫刻を施したりした成金趣味の工場が幽霊屋敷になり
やがて解体されていった。
繊維会社というのは、何故か工場の周囲にサンゴ樹とか槙の木を植えていた。
これらの木は葉っぱが密集しているし、冬でも落葉しないから塀のかわりに植えていたと思われる。
建物はなくなってもサンゴ樹は、ところどころに残っていて、
ツワモノどもの夢の跡ではないが、どこか物悲しい感じがした。
さて本題に入る。
この、うらぶれたサンゴ樹の根元をよく見ると、細長い袋のようなものが付着していて
地面の中にまでくいこんでいる。
これが地蜘蛛(ヂグモ)の巣であることは、男の子なら誰でも知っている。
このヂグモを捕獲して遊ぶと面白いことも、腕白坊主なら誰でも知っている。
もう30年以上の歳月が流れてしまったが、少年の私は友達と一緒に
このヂグモと遊んでいた。
サンゴ樹の木の下で、ヂグモの巣袋を、ソーーーーッと引っ張る。
強く引っ張ると切れてしまうから。
チョチョッと引っ張るとストッキングのように伸びる、そして伸びたストッキングが縮む力で
ヅヅヅッと巣袋が地上に引っ張り上げられる。
こんなことを数度繰り返すと、巣袋は完全に地上に出る。
出てきた長さ30センチほどの巣袋を、縦にビリビリと破ると、
巣の中で安眠していたヂグモがコロッと落ちる。
このクモは夜行性なのだ。
そして、このクモ、クモの中ではドンな奴らだから、子供でも噛まれることは滅多にない。
きわめて遊ぶのに適したクモなのである。
私と友達は、ドンで闘士型で、固い鎧と大アゴをもったヂグモ同志を噛ませ合って遊んだ。
大アゴの牙も固い鎧で阻まれて、互いに決定打を与えられず、四つ相撲みたいになるから面白い。
そのうちに、互いの牙が外れて、草むらの中に逃げて行ってしまう。
去る者は追わない。
私達は、次々に巣袋を破り、新規の対戦を決行していった。
一度遊ぶ毎に数匹のヂグモが死んだと思う。
でも、そんな事は何も考えずにやっていた。
ただただ、面白いからやっていた。
それから、30年の歳月が流れた。
・・・・今現在の私は大変に気弱である。
道端を散歩していて甲虫が転がっていて、まだ息が合ったりすると、道端の木に
ソッと抱きつかせたりしている。
釣りをしていて、魚がかかって引いている感覚が、
魚がもがき苦しんでいる感覚に思えたりして嫌になり、釣りは止めた。
野良猫がいると、キャットフードを与えたりする。
川で、捨てられた仔猫が仰向けに溺死しているのを見て、墓標を作ったりしている。
どうも私は、過去に虫けらを殺し過ぎたようだ。
動物愛護とか自然保護に限らず、人間というのはあらゆる面において、愚行の果てにしか、
良心とか優しさを獲得できないようにできているらしい。
最初から獲得することは、どうもできないようだ。
無理に獲得しようとすると、自由と平和のための闘志、などというカタワ者になってしまうらしい。
つくづく、悲劇的な存在だと思う。
先日、梅雨の合間に裏街道を散策していて、うらぶれたサンゴ樹と偶然に出会い、
あれこれ回想する時間を持ったのは良かったが、打ちのめされることもしきりだった。
あっちにもこっちにも工場ができて、カタカタ、バッタンバッタンという機織り音がしていた。
やがて繊維不況がやってきて、朝早くから夜遅くまでしていた音がしなくなった。
しばらくして、そこで働いていた女工さん達が去って行った。
そのうちに、門や玄関なんかに彫刻を施したりした成金趣味の工場が幽霊屋敷になり
やがて解体されていった。
繊維会社というのは、何故か工場の周囲にサンゴ樹とか槙の木を植えていた。
これらの木は葉っぱが密集しているし、冬でも落葉しないから塀のかわりに植えていたと思われる。
建物はなくなってもサンゴ樹は、ところどころに残っていて、
ツワモノどもの夢の跡ではないが、どこか物悲しい感じがした。
さて本題に入る。
この、うらぶれたサンゴ樹の根元をよく見ると、細長い袋のようなものが付着していて
地面の中にまでくいこんでいる。
これが地蜘蛛(ヂグモ)の巣であることは、男の子なら誰でも知っている。
このヂグモを捕獲して遊ぶと面白いことも、腕白坊主なら誰でも知っている。
もう30年以上の歳月が流れてしまったが、少年の私は友達と一緒に
このヂグモと遊んでいた。
サンゴ樹の木の下で、ヂグモの巣袋を、ソーーーーッと引っ張る。
強く引っ張ると切れてしまうから。
チョチョッと引っ張るとストッキングのように伸びる、そして伸びたストッキングが縮む力で
ヅヅヅッと巣袋が地上に引っ張り上げられる。
こんなことを数度繰り返すと、巣袋は完全に地上に出る。
出てきた長さ30センチほどの巣袋を、縦にビリビリと破ると、
巣の中で安眠していたヂグモがコロッと落ちる。
このクモは夜行性なのだ。
そして、このクモ、クモの中ではドンな奴らだから、子供でも噛まれることは滅多にない。
きわめて遊ぶのに適したクモなのである。
私と友達は、ドンで闘士型で、固い鎧と大アゴをもったヂグモ同志を噛ませ合って遊んだ。
大アゴの牙も固い鎧で阻まれて、互いに決定打を与えられず、四つ相撲みたいになるから面白い。
そのうちに、互いの牙が外れて、草むらの中に逃げて行ってしまう。
去る者は追わない。
私達は、次々に巣袋を破り、新規の対戦を決行していった。
一度遊ぶ毎に数匹のヂグモが死んだと思う。
でも、そんな事は何も考えずにやっていた。
ただただ、面白いからやっていた。
それから、30年の歳月が流れた。
・・・・今現在の私は大変に気弱である。
道端を散歩していて甲虫が転がっていて、まだ息が合ったりすると、道端の木に
ソッと抱きつかせたりしている。
釣りをしていて、魚がかかって引いている感覚が、
魚がもがき苦しんでいる感覚に思えたりして嫌になり、釣りは止めた。
野良猫がいると、キャットフードを与えたりする。
川で、捨てられた仔猫が仰向けに溺死しているのを見て、墓標を作ったりしている。
どうも私は、過去に虫けらを殺し過ぎたようだ。
動物愛護とか自然保護に限らず、人間というのはあらゆる面において、愚行の果てにしか、
良心とか優しさを獲得できないようにできているらしい。
最初から獲得することは、どうもできないようだ。
無理に獲得しようとすると、自由と平和のための闘志、などというカタワ者になってしまうらしい。
つくづく、悲劇的な存在だと思う。
先日、梅雨の合間に裏街道を散策していて、うらぶれたサンゴ樹と偶然に出会い、
あれこれ回想する時間を持ったのは良かったが、打ちのめされることもしきりだった。