この半年くらいは、暇さえあれば近場に旅行に出かけている。
何故急にそんな気を起こしたのか、自分でも分からないが、要するに朝早くに目が覚めて
いそいそと出かけて行くのである。
どこかに神様がいて、『私』というサイコロを振っていて、旅と出れば旅をする、
読書とでれば読書する、仕事と出れば仕事に没頭する、
どうもそんな気がしてならない。
我々は生まれ落ちるとスグに社会の一員になる。
従って、社会という環境に自分を適応させて生きてゆく、という運命を背負わされる。
では、100%その運命を受け入れなければならないかと言えば、そうでもない。
内なる欲求に従って行動することもあるようである。
気分転換とか、リフレッシュというものを超えた次元の内的欲求によって。
3月吉日、私は、何はともあれ、JRに乗った。
先日、金券ショップで手に入れた使いかけの青春18切符を懐にいれて。
西に向かって走って行くと、米原で終点になってしまった。
仕方がないので乗り換えて京都にでも行こうと思ったが、気まぐれを起こして山科で降りた。
ここから湖西線に乗って日本海にでも抜けようと思っていると、坂本という駅名が目に入った。
降りてみようか、と迷っていると電車が動き出し、次の駅のおごと温泉まで行ってしまった。
Uターンして再び坂本に戻る。
電車の中で、坂本の日吉神社のことを思い出したら、何が何でも行きたくなってしまったのだ。
神社を見ながら、その歴史的背景を考えるのは楽しい。
鳥居の形一つにしても、それこそ多種多様である。
鳥居の型を大きく2つに分ければ、明神型と神明型に大別できる。
明神型は鳳凰が羽を広げるイメージで反り上がっている。
これは仏教の影響である。
一方、神明型はそれがない。
伊勢神宮とか靖国神社は、この形である。
日本古来の様式をとどめている。
狛犬も亦しかり。
もともと狛犬は、神社のホコラの中で木彫りの人形として存在していた。
それが時代とともに段々と前に出てきた。
そして、仏教の影響で石彫りにされ、風雨にサラサレルようになってしまった。
日吉神社というのは不思議な神社である。
鳥居は山王形式の明神型なのに、木造の狛犬がデンと屋根の下で番をしている。
設立年代からいえば、仏教以前の神社と考えてよいと思うのだが・・
ひょっとして、古代神道の神社が先にあり、その上に日吉神社が覆いかぶさったのだろうか。
そんなことを考えながら、再び、山王型の大鳥居を眺める。
鳥居というのは、紀元前3000年くらいには中国大陸に存在したものである。
当時の人間は、神というのは天界に存在していて、鳥というのはその使い、
つまり人間と神々との伝達者としての役割があると信じられていた。
神社に鳥居があるのは、そのためである。
神社の鳥居の形から、古代の人たちが、どのような神を思い描いていたのか、
あれこれと考えるのが楽しいのであるが、どうも日吉神社のそれは信仰と言うより
権威主義的な感じがしてしまう。
人間社会の垢にまみれた悲しい歴史が、覆いかぶさってしまっているのだろうか。
これらの疑問を、お札をもらいながら聞いてみたが、まったく分からない、ということだった。
神職の人にも聞いてみたが、同じ答えが返ってきた。
SF作家なら、ここから想像力を発揮して、先住民のまつろわない神を大和朝廷や
仏教を厚く信仰した権力者が滅ぼした、という展開にするのだろうか。
そんな事を考えながら何時間をたたずんでいた。
まあ、何はともあれ、私は自分の内的欲求に従って旅行した。
何故急にそんな気を起こしたのか、自分でも分からないが、要するに朝早くに目が覚めて
いそいそと出かけて行くのである。
どこかに神様がいて、『私』というサイコロを振っていて、旅と出れば旅をする、
読書とでれば読書する、仕事と出れば仕事に没頭する、
どうもそんな気がしてならない。
我々は生まれ落ちるとスグに社会の一員になる。
従って、社会という環境に自分を適応させて生きてゆく、という運命を背負わされる。
では、100%その運命を受け入れなければならないかと言えば、そうでもない。
内なる欲求に従って行動することもあるようである。
気分転換とか、リフレッシュというものを超えた次元の内的欲求によって。
3月吉日、私は、何はともあれ、JRに乗った。
先日、金券ショップで手に入れた使いかけの青春18切符を懐にいれて。
西に向かって走って行くと、米原で終点になってしまった。
仕方がないので乗り換えて京都にでも行こうと思ったが、気まぐれを起こして山科で降りた。
ここから湖西線に乗って日本海にでも抜けようと思っていると、坂本という駅名が目に入った。
降りてみようか、と迷っていると電車が動き出し、次の駅のおごと温泉まで行ってしまった。
Uターンして再び坂本に戻る。
電車の中で、坂本の日吉神社のことを思い出したら、何が何でも行きたくなってしまったのだ。
神社を見ながら、その歴史的背景を考えるのは楽しい。
鳥居の形一つにしても、それこそ多種多様である。
鳥居の型を大きく2つに分ければ、明神型と神明型に大別できる。
明神型は鳳凰が羽を広げるイメージで反り上がっている。
これは仏教の影響である。
一方、神明型はそれがない。
伊勢神宮とか靖国神社は、この形である。
日本古来の様式をとどめている。
狛犬も亦しかり。
もともと狛犬は、神社のホコラの中で木彫りの人形として存在していた。
それが時代とともに段々と前に出てきた。
そして、仏教の影響で石彫りにされ、風雨にサラサレルようになってしまった。
日吉神社というのは不思議な神社である。
鳥居は山王形式の明神型なのに、木造の狛犬がデンと屋根の下で番をしている。
設立年代からいえば、仏教以前の神社と考えてよいと思うのだが・・
ひょっとして、古代神道の神社が先にあり、その上に日吉神社が覆いかぶさったのだろうか。
そんなことを考えながら、再び、山王型の大鳥居を眺める。
鳥居というのは、紀元前3000年くらいには中国大陸に存在したものである。
当時の人間は、神というのは天界に存在していて、鳥というのはその使い、
つまり人間と神々との伝達者としての役割があると信じられていた。
神社に鳥居があるのは、そのためである。
神社の鳥居の形から、古代の人たちが、どのような神を思い描いていたのか、
あれこれと考えるのが楽しいのであるが、どうも日吉神社のそれは信仰と言うより
権威主義的な感じがしてしまう。
人間社会の垢にまみれた悲しい歴史が、覆いかぶさってしまっているのだろうか。
これらの疑問を、お札をもらいながら聞いてみたが、まったく分からない、ということだった。
神職の人にも聞いてみたが、同じ答えが返ってきた。
SF作家なら、ここから想像力を発揮して、先住民のまつろわない神を大和朝廷や
仏教を厚く信仰した権力者が滅ぼした、という展開にするのだろうか。
そんな事を考えながら何時間をたたずんでいた。
まあ、何はともあれ、私は自分の内的欲求に従って旅行した。